昭和42年03月19日 夜の御理解



 心配する心で信心せよと。心配する心で信心せよ。また、身しのぎの出来るような信心にもなれと。身しのぎというのは、自分で自分のことぐらいは、お伺いが出来るようにならなければならんと言うのです。いわゆる、一本立ちが出来るような信心になれということである。今日は、久留米の、ここの神愛会の支部でございました。三橋先生のところの春の御霊様のお祭りがございました。
 併せて初代の十年祭が有り難く奉仕させて頂きました。これはもう私のいわば修行時代、神様からいろいろとお指図を頂くようになりました、ちょっと前のことでございました。御心眼などを頂いたこともないいや御心眼が、どげなことかまだはっきり致しておりません時分でしたがある難儀な問題で、私福岡に当時居りましたから福岡の教会にお参りさせて頂いて、そのことを一生懸命神様にお願いさせて貰いよりましたら。
 私の考えますと、心眼だったんですね。心の眼に映じたのは、お三宝の上に、何か黒いものがお供えしてあるんです。なんだろうかと、この御心眼頂きながら思ってるんです。そしたら、それはなんと石炭なんです。生石ですね。しかもそのお三宝がですあぁして、こちらから、お三宝の下には、三つ穴が空いております。あの正面がこちらを向いている訳です。あれは、神様にお供えする訳なんですけれども。
 私が頂いておる御心眼は、それが裏の方が出て来ておるんですね。あれは反対にこう回って、穴が見えてないんです。そういうお三宝なんです。それで御祈念終わってから、今日頂いたあれが、御心眼じゃっただろうかとこう、私思うたんですけど。さあその御理解が頂いても分からんのです。結局身しのぎが出来るようなおかげを頂いたら、それが何が何んだったか分かるだろうけれども、分からんのですね。
 自然の中にでも、本当に神が、もの言うて聞かすと。子供の歌うわらべ歌の中にでも、神がもの言うて聞かすから心して聞けよと仰る。自分がしとったこりゃほんにどんなふうにしたらいいだろうかと、ここに迷い悩んでおる時にです。ふと誰かが流行歌の歌の文句が入ってくる。例えばテレビならテレビラジオならラジオから。その時にです私がどうしたなら良かろうかと思い迷うておることに対して、ふっとその歌の文句で返事をしてくれる事があるのです。
 そういう時に心が決断がつく。心が決まるのですこれなんかもいわゆる、身凌ぎが出来るようになると、成り行きを大事にしていくことが出来ます。そういう様な働きでしたが。今から私が思いますと石炭というのは、あれは真っ黒しておるから、いわゆる苦労の真っ最中だったという事であろうと思います。同時にですお三宝があのようにしてあるのではなくてです。
 こう裏の方を向いておるということは、あれはあれが神様にお供えするものだけれども、神様の方から氏子私の方へお供えしておって下さるという感じなんです。いわゆる私が、あの当時に一生懸命の修行根限りの、いうなら難儀が続いておりましたがあの難儀とても、苦労とてもですあれは生石だったんだ石炭だった。しかも神様が私に供えて下さるんだ。私に下さるんだということが分かりました。
 言うなら神様が私にその修行を求めておられたんだ。神様が私に下さるんだ。ですからお互いがです、成程難儀だ苦労だ修行だと言わずに、神様がさせて下さる修行として頂くという気になればです、それが生石に火がついたようにです。一切のことがままになる。もし冷たい水であるならお湯にもなろう。はぁ極楽極楽と言う様ないわばお風呂のお湯にもなろう。お茶を飲ませて頂くためのお湯にもなろう。
 野菜も煮えよ魚も煮えよということ。自分の心の上にもままになるおかげ、いわゆるお米である。お米ならそれがままにもななろうという事である。さぁこの石炭をしっかり今、頂き貯めておくのぞ。そしてどのようなことでもが、ままになるところの材料の元にしていくのぞと、神様が私に呼びかけておって下さったんですけれども。こちらにまだ身凌ぎが出来てないから、そのことが分からなかったんです。
 心配する心で信心をせよと。今、毎日、高山さん、植木の庭園をを一生懸命やっております。皆さんもご承知のように、やはり、何と言うても、石の扱い方というか、木の配置植え方というか。とてもとても素人の及ぶ事ではございませんね。やはり、長年、年期を入れた玄人だと思うのですけれども、ひとつ何というか、新しい感覚に欠けておる。お爺さんですから、言うなら、昔の風の庭を造ろう造ろうとする。
 それで、委員長をはじめ、みんな、いわゆる、椛目の感覚派といった人達が、あげなっじゃいかん、あげなふうじゃいかん、とこう、いつも言っておる訳なんです。そのことを今日も、あちらの久留米で、総代さん方が、心配して話しておる訳なんです。委員長、どうか言うたじゃろうかと。この頃から、見事なここの内山庭園から、見事な設計をしてもらっております。
 ですから、あの設計書見せたじゃろうかと。もう植えたり、言わば、石の配置を終わったんでは、こりゃ出来んが、困ったことじゃある。せっかく植えたづば、又、これは抜いてしまわにゃならんが、引っこいでしまわにゃならんがと言うて、心配をしておるんです。その事を、私、今晩の御祈念が、私とても、やっぱり、ちょっと、その事が心配なんだ。そしたら皆さん、私の心眼に頂くとがですね、石なんです、大きな。
 その石に、松の木を、こうやって植えよるところを頂いた。今日が、ちょうど、松の木を植えよりましたもん、高山さんが。この松に、例えば、根を張る筈がありませんもんね、松が。植わる筈がありませんもん。そこで私は思うた。ははぁ石に、松を植えると言うことは、今日、松を植えよった、あの事を、総代さん方が見てから、心配しよったんだが、あの石という事は、石は心なんである。
 意志を貫くといったような事を申しましょう。自分の心を貫くと言う事なんです。ですから、いうならば、そうやって心配して、がたがた言わずに、高山造園師の心の上にです。意志の上にです、心の上に、どうぞ、お繰り合わせを下されいと言うて、願えという事だと思うた。もう、高山さんばっかりはもう、素人が、ねーごつ言いよるかと、言った様な風で、全然その、委員長あたりの言うことを聞こうとしない。
 どうした奴じゃろうかと悪口を言うたり、心配をしたりする前にです。どうぞどうぞ高山庭園師の心の上に、只今せっかくああして見事な庭が出来ておる、見事な材料が揃うておるのでございますから、あれがみんな誰が見ても素晴らしいなぁというような庭園が出来ますために。ここで言う例えば委員長あたりはなかなかの感覚派ですから。確かにあの人の良いというのは良いんです。
 ですから心の上にお繰り合わせを下されいと言うて願えと仰る。心配する心で信心をせよ。そんな事なんだもう家の子供が言うことを聞かん。もう家の家内が私の言うことは聞きません。と言うてがたがた言うたり心配したりする前にまずお取次を頂いて、どうぞ子供の上に心の上に誰彼の上にです。心の上にお繰り合わせを下されいと言うて只心配するだけではなく、思うだけではなくそれが祈りになっていく時です。
 私がそれを、心配する心で信心するとは。外にも広い意味がありましょうけれども、その様なことでもあろうかという風に思うたのです。もうあんたそげな事してしてからと言うてですよ。もうほんにあげんあってくれると良いけれどもと、心配して心を痛める心では、おかげを頂かれません。まづ、だから、その人の心の上にお繰り合わせを願う。為にはまづ自分自身の心の上にもお繰り合わせを願うて。
 和らぎ喜びの心をもって、そのことを祈っていくと言う事が、心配する心で信心せよと言うことであるとこう私は思うた。私は、本当、今日、総代達が心配しよったが、ほんにそうだなと、私も、やっぱ、一緒に心配しておった。そのことをふっと、御祈念中に思わせて頂いたら、そういう様な、松に、言わば、石に松を植えておる。これじゃいかん。だから私は、そこんところを、石とは心なりと思うた。そして、彼の心の上にお繰り合わせを下されという事を願わして頂いた訳でございますがね。
 お互いの信心を進めて、そして、心配する心で信心をさせて頂いて、いわゆる、言うよりも思うよりも心配するよりも、祈り願わして頂く信心をする為に、まづ自分の心の上にお繰り合わせを願わして貰うて、そのお繰り合わせを頂いた、その心で祈らせて貰う。そしていくうちにです。だんだん信心が成長して参りまして、自分で自分の事ぐらいは、この願える。いわば、お伺いが出来るような、言うなら、身凌ぎの出来るような信心も出来るというもんですね。
   どうぞ。